掲示板 暗号「山上憶良」



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48件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[51] 城東歯科診療券

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2017年 1月29日(日)18時45分52秒 softbank126122251193.bbtec.net  通報   返信・引用

城東歯科診券のコピー

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm




[50] 城東歯科

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2017年 1月29日(日)18時33分6秒 softbank126122251193.bbtec.net  通報   返信・引用

石倉 守 様

この度は、10年以上前に書いた拙文「やっぱり評判のいい歯医者さんだ!!!」www.geocities.jp/yasuko8787/haisyasan.htmについて、ご感想をお寄せ頂き、ありがとうございます。

小生、昭和10年生まれで、記憶力が低下し、詳しいことはお答えできませんが、城東歯科の診察券に残された記録にもとづいて、下顎の入歯に関して少しだけ書いてみます。

平成18年7月末から9月始めにかけて作られたらしい下顎の入歯は、左右に1本ずつ残された奥歯に支えられるようになっているので、安定剤を必要としません。

しかし、密着度が低下し、舌を使って外したり入れたりできるようになり、食べたものが入り込みます。

特に、こまかく固いものが入ると、痛くなるので、イチゴは敬遠するようになりました。

また、左側の奥歯は、少し硬いものを噛むと痛く感じるようになり、なるべく使わないようにしていたのですが、平成28年11月18日には、診療してもらわずにはおれなくなりました。

ところが、小生の口内をパッとご覧になっただけで、井出勇次先生が留め金に手を加えられると、たったそれだけで、歯を噛み合わせても痛みを感じなくなりました。

なお、何日か歯茎が痛かったので、歯垢を取り除いて下さった際に傷つけられたのだろかと思っていたのですが、それもすぐに治り、いい先生に巡り合えたものだと、感謝している次第です。
                                           村上 通典

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[49] 入歯安定剤(テッシュ)

投稿者: 石倉守 投稿日:2017年 1月28日(土)20時09分59秒 202-229-164-46.ap-p28.canvas.ne.jp  通報   返信・引用

貴方の投稿でテッシュでの入歯安定剤の代用についての記事を拝見しました。
感動しました!
今まで色々な安定剤を試しましたが特の下顎の入れ歯の安定が難しく縦続時間が短く手間が掛かります
紹介が遅れましたが長年入れ歯で思考錯誤している石倉守と申します。
是非、貴方の事を知りたいと言う衝動にかられ、思わず投稿しました
もし連絡頂けるならと思います。



[47] 無意味な行為

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年12月18日(日)18時09分13秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

自分では画期的な発見と確信する事柄が全く認められないことを知ると、ついつい無意味なことをしてしまいます。
「いろは歌の暗号」の検索順位を作成し、中島 尚彦氏に感想を求めたことも、その一つの典型といえそうです。


「Rick 村上通典への返事  2016/7/31, Sun 21:25」

村上様、

 敬愛する貴殿のたゆまぬ努力と情熱故、「いろは歌」の不思議に多くの方々が興味を持ち、その内容を大切に考えるようになったことに、まず、感謝申し上げます。私自身も村上様の著書を本屋で目にしたことがあり、その題名をはじめとし、鋭い洞察力を目の当たりにし、大変嬉しく思ったものです。これからも古代から語り継がれている大切なメッセージを解明するために、素晴らしい働きを継続して頂くことを切に願っております。村上様のコメントに対し、答えにはならないかもしれませんが、いくつかの大切なポイントをお伝えいたします。

 まず、奈良、平安時代を通じて建国のために労した識者の大勢は、天皇を仰ぎ見、お上としてお仕えし、国を愛するが故に、現代社会に住む私たちには想像もできないほど大変謙虚な思いもって日々、精進していたと考えられます。それ故、山上憶良のように奈良時代を代表する偉大な詩人が、自らの名前を暗号に盛り込むような、一見、売名行為とも考えられる策を思慮するとは、考えづらいのではないでしょうか。また、その後の時代において、憶良の弟子が同様のことを目論むことも不可能ではありませんが、師の名声を傷つけることになりかねないことから、現実的ではありません。
 次に、暗号文のありかたについですが、当然のことながら、暗号と語られるだけに、そう簡単に解明されるようでは意味をなしません。よって、何らかの法則を見出したうえで、初めて、少しずつ、解読できるような高いハードルが込めれていて当然かと思います。よって、何段書きで読むかについても、様々な見地から文脈を紐解いていく必要があり、その「法則」、すなわち、解読のカギを見つけるまでは、あらゆる角度から文字列を見直す必要があります。暗号文の解読には、こだわりや前提があってはならない、ということに気付くことが大切です。
 3番目の重要ポイントは、7x7の升目に並べて読み込むことにより、その後の時代において普及した57577調の五句体による短歌として、自然に読めることに着眼することです。そこに、「いろは歌」の真髄を理解する法則が秘められていたことになり、「いろは歌」の暗号文は、短歌の先駆者となる貴重な存在であったのです。「咎なくて死す」はその中の一節にしかすぎず、その前後には短歌全体がきちんと綴られていたことが、大変すばらしいことだと思います。

 いちよらや
 八重咲く逸話
 咎なくて
 死す御子入れり
 巌となって

 ごく一般的には、通説を頼り物事を解釈することが普通かと思いますが、どうも「いろは歌」の場合はそれが該当しないようです。かな文字の創作についても、「いろは歌」に含まれるキリストメッセージにしてもしかり。何故なら、これらはみな、ヘブライ語とのつながりがあるからです。万葉集をはじめ、古今和歌集にて収録されている文献の中には、ヘブライ語で書かれている歌が存在し、その視点にたってヘブライ語の原語をもって文脈を理解しない限り、作者の本来の意図が理解できない事例が存在します。よって、これまでの通説に捉われることなく、ありのままの文章を日本語で読み、かつ、ヘブライ語でも読む、という修練を経なければ、古代の歌の謎は、なかなか解けないことでしょう。
 「君が代」や「さくらさくら」がヘブライ語で書かれていたことは、Historyjp.comでも詳細を解説しており、イスラエルの国立大学で教鞭をとられていた教授からも、確かにヘブライ語の歌であると、太鼓判を頂いております。今後も、時間を見つけては、古代の歌をヘブライ語により解読し、公表していきたいと考えております。
 最後に、既存の執筆内容の繰り返しになってしまいますが、「いろは歌」の暗号歌として、その中にイエスキリストのメッセージを書き記すことができた偉人は、空海しか存在しないことに違いはないことに皆様が気づかれることを願っています。ひらがな、かたかなは、共にヘブライ語のアルファベットに由来するものであることも既に解説済みであり、古代の歌の中にはヘブライ語で書かれているものが存在すること、そして多くのイスラエルの民が古代、日本列島に渡来したことなどを踏まえると、それらの背景に聖書とヘブライ語に通じていた空海が存在指定も、決して不思議ではありません。また、余談にはなってしまいますが、日本最古の文学ともいえる「竹取物語」の作者も、空海であったことをあえて、ここでお伝えてしておきます。その根拠についても、いずれ時が来た時に、きちんと解説する予定でおります。

 村上様、お体を大切にして、日本のために引き続き、がんばってください。貴殿の素晴らしい働きを、陰ながら応援しております。

中島 尚彦


中島 尚彦 様

当方、7月31日に、思いがけない2通のメールを受け取りました。奇しき縁を感じ、その一つ
「teacup.レンタル掲示板   teacup. 掲示板投稿のお知らせ  2016/7/31, Sun 04:35」
について、触れさせていただきます。

http://6904.teacup.com/mm3210/bbsの「[8] Re;私の勘違い? 」投稿者: MM3210
投稿日:2015年 6月18日(木)15時06分16秒には、次のようにあります。
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izumiさま

書き込み、ありがとうございます。

「私の性分としては、「恥掻く覚悟(ハジカクカクゴ)」をして、「糞馬鹿(クソバカ)」と嘲
られるような、暗号めいた言葉を読みとってみたくなるのです。」

このように断っている「隋書倭国伝の誤記「多利思北孤」」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/80819.htm については、字母歌の暗号の作者を、
『口遊』の著者源為憲(?~1011)と見ているので、

10世紀の英国において、「L、F、U」または「北」を意味する単語がどのように発音
されていたかを、仮名でお教えいただければ、直ちに訂正いたします。
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これに対し、2016/7/31, Sun 04:35のメールは、次のような投稿があったという知
らせだったのです。
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[32] 10世紀の古英語につきまして
投稿者: 空山  投稿日:2016年 7月31日(日)04時35分28秒

文系大学院で英文学を学んでいる者です。貴説いろは歌と山上憶良を拝見し、
日本古代史・万葉集・古事記・古今集に対しての長年の疑念が氷解し目が開けた思いで居
ります。

一年以上前になりますがhttp://www.geocities.jp/yasuko8787/hatuon.htmの御質問に一返答を。

現代英語のnorthに当たる単語は古英語でnor?と表記され、ノース(スは歯摩擦音)と発音
することが出来ます。
アルファベットFの名称そのものを指し示す呼称はエフ、Uはユー若しくはラテン・ドイツ語
から推測するとウーの可能性があります。Lはエルで良いと思われます。
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上掲のもう1通のメール「Rick 村上通典への返事  2016/7/31, Sun 21:25」は、次のメールに対する返事です。
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日本シティジャーナル編集部 御中
> 他の執筆もありまだ読めていない
中島尚彦氏がご多忙のお方であることは、重々承知しております。

しかし、著書を批判されたものとしましては、反論に対する再批判が頂けず、
「他の執筆もありまだ読めていない」とのご返事だけでは納得出来きません。

もし、8月末までに何のご連絡もなければ、「ご自分の誤りを認めたらしく、当方が要求した
再批判をされなかった」、と『「いろは歌の暗号」の検索順位』
 http://www.geocities.jp/yasuko8787/160621.htmに付記させて頂きたいと存じます。

お手数をおかけしますが、中島氏にその旨ご連絡下さるようお願い致します。

2016年7月26日                                  村上通典
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RE: お問合せ  村上 通典 様
From: info_ncj    To: mm3210desu@yahoo.co.jp     2016/7/19, Tue 13:39


村上 通典 様

「日本シティジャーナル」をご覧いただき誠にありがとうございます。
著者の中島に確認致しましたところ、他の執筆もありまだ読めていないとのことでした。
今後とも「日本シティジャーナル」をよろしくお願い申し上げます。

日本シティジャーナル編集部
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過日、『暗号文としての「いろは歌」』http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=165
における、拙論に対するご批判箇所をコピーし、『「いろは歌の暗号」の検索順位』
http://www.geocities.jp/yasuko8787/160621.htm において反論させて頂いた旨ご連絡し、

再度ご批判頂けるかどうか、お問合せ致しました。

その件に関し何のご連絡もないことは、当方の主張を認められたからだと受け取
ってもよろしいのでしょうか。

今後のこともありますので、確認させていただきます。
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残念ながら、ご返事の内容は、http://www.geocities.jp/yasuko8787/160621.htmとは全く
無縁のものでした。

「ヘブライ語を起源とする仮名文字」の「平仮名成立過程の推測」、「片仮名成立過程の
推測」を拝見しても、小生は、漢字の影響の方をはるかに感じます。

なぜこうまでまで食い違いが生じるのでしょうか。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[46] 古代史と旅動画より

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年12月18日(日)16時51分21秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

古代史と旅動画                   2016年7月 5日 (火)
私的論評 「魏志倭人伝に見る春秋の筆法」サイト記事批判の試み

上記に、次のようにあることに気付きました。遅くなりすぎましたが、コピーを掲載させていただきます。
今回の題材は、下記サイトの記事であるが、「管理人」から批判を依頼された感じなので、頑張って、書き募ったものである。
 「魏志倭人伝に見る春秋の筆法」
 冒頭部分を引用すると次の感じである。以下、ベストアンサーとそれに対する管理人さんのコメントが掲載されているが、ここでは割愛した。
 「魏志倭人伝」の「景初2年」と「邪馬壱国」
「中国史書 邪馬台国」で検索すると、2番目に、「閲覧数:3,492 回答数:9」とある、
次のような「ヤフー知恵袋」の質問とそのベストアンサーが載っていました。
「邪馬台国のことが書かれた中国の歴史書は何ですか?」    2011/6/24 16:03:54
 サイトで全文引用されている問答自体は、(「回答」と題して展開される論説の余談に近い脱線ぶりは別として)質問に対する回答として特に非難すべき点はない(度を過ごしていると思えば、ベストアンサーに選ばなければ良い)と思いますが、気になるのは、ここで「管理人」が難色を示して、サイトに引用掲示し、論難している点であり、当ブログの見当違いの記事に対するコメントで、「景初二年遣使」仮説に対する見解を公開したので、として当方の意見を求められているので、ここに、誠意を持って意見するものです。
 率直に言って、論旨とその前提が簡単に読み取れないので、大変困らされるものです。
 まず、引用記事の質問は、歴史書名を問われているので、これに対する回答は端的で良いと思うのですが、ベストアンサーに選ばれた回答は、当然ながら、三國志に「耶馬臺国」(邪馬台国)はない、定説は間違い、という史料批判に始まって、「定説」による魏志倭人傳の誤記訂正に対する(自発的)反論が始まり、言うなら、本筋を外れた自問自答めいた文句が脱線状態で続いている次第です。
 そして、魏志倭人傳に景初二年と明記されているにもかかわらず、定説(俗論)は、自明な誤記として排除しているのは、何か、具体的に問題があって、景初二年説が排除されているのかという仮想的な問いに対する回答が、「長大」な回答文の最後になっているのです。と言うことで、言うならば、脱線続きの回答の果ての迷言であり、ここに噛みつくのはどんなものかと感じます。
 つまり、「景初二年で全く問題ありません。」とは、景初二年説には仮説として問題となる点がないから排除したらダメだ、と根拠のない予断に黒々と煮染められた俗論の非科学的な態度を批判しているものであり、「景初二年が絶対正しい。」と、別の予断を持って景初三年を否定する非科学的な態度をとっているわけではないのです。
 ベストアンサー自身が明言しているように、「仮説は結論ではない」のです。
 一般論として、質問者と回答者の問答に横合いから第三者が口を挟むのか好ましくないのは、回答の文脈から切り離された片言に対する攻撃(揚げ足取り)になっていろいろ具合が悪いと言うことが通例だからです。
 「管理人」さんにベストな対応としてお勧めしたいのは、ベストアンサーの用語に噛みつくのではなく、自分なりにベストアンサーを越えるベリーベストアンサーを書き上げて、質問者に提示することではないかと思います。
 頑張って、全文引用までした管理人の論難(激怒)の趣旨を推定してみると、そもそも、質問の回答の形を借りた論説展開であり、特定の学説の普及を図った「ステルスマーケティング」ではないかと憤っているようにも見えますが、表面上は、芸のない揚げ足取りのように見えています。

 主旨としては、倭国使節の京都洛陽到達時に使節の皇帝謁見を上申した司馬懿は洛陽未帰還、不在であり、皇帝の制詔を伝える手配もできなかったのではないか、おかしいできないかとの設問と読み取れますが、それは、ここで行われた問答の埒外であり、別途想定される景初二年説と景初三年説の論争対峙の際に提示されるべき論点の一つとなり得るかという程度の軽微些細な事項の指摘と思います。

 思うに、景初二年説と景初三年説のいずれの仮説を取り上げても、当該仮説の全面否定には、その論拠をことごとく絶対否定することが必要であり、とても、人間業ではないと思います。まあ、元々の質問からここまで離れているのでは、関連質問として論議するのがおかしいのですが。
 最後は、形式上質問文になっていますが、文意が通らない不明瞭な文になっている点は別としても、そもそもが場違いな捨て台詞であり、大変悪い印象を与えています。ベストアンサーにこの質問が届いたとしても、「主張していないことに対して質問されても、回答の義務はない」と無視されるべきものです。質問形の捨て台詞は、論議をかき立てたいという際には、どちらかというと禁句に近いものであり、むしろ。私見を吐露する断言帳で論難していれば、まだましです。
 わざわざ批判の機会を与えていただいたことに感謝します。
以上
追記
1. 当ブログ筆者も、時として場違いな論議をすることがあるので、えらそうなことは言いにくいのですが、それを気にして批判を「遠慮」しては、率直な批判にならないので、気にしないことに決めています。
2. これは、単なる感想ですが、引用されている曹魏明帝の臨終時の言葉は、あまりに劇的であり、ほんまかいなと首を傾げるものです。
 三國志の読者であれば、誰でも、白帝城での蜀漢皇帝劉備の臨終の際の丞相諸葛亮に対する言葉と対比すると思うのです。つまり、皇太子が皇帝に相応しくないと思ったら、君が皇帝となって国を支えてくれとまでいわれながら、最後まで丞相の分を越えなかった諸葛亮に対して、幼帝曹芳を父親代わりに補佐してくれと頼まれたにもかかわらず、曹魏の最高権力者として帝國を壟断し、ついには、司馬氏が曹魏を横領して中原王朝を司馬氏の私物化してしまう流れを作った司馬懿であり、その対比は、ある意味あからさまに、司馬氏に対する(熾烈な)非難になっているように思うのです。
 これは、史家陳寿の真骨頂(この記事が原因で斬首されても、正史として残れば、史官として本望である。悔いはない)の吐露と感じます。
3.言うまでもありませんが、当方は、当該質問とベストアンサーには全く関係のない局外者です。


ToYourDay 様
筑摩書房の『三国志Ⅰ』の「公孫度伝」には、次のようにあります。
「(景初二年)八月丙寅の日(七日)夜、長さ数十丈の大流星が、首山の東北から襄平城の東南に落下した。壬午の日(二十三日)、公孫淵の軍勢は総崩れとなり、〔公孫淵は〕子の公孫脩(しゅう)ともに数百の騎兵隊をひきいて包囲を突破して、東南に逃亡した。〔司馬宣王の〕大軍はこれを急襲し、ちょうど流星の落下した地点で、公孫淵父子を斬り殺した。城は陥落し、相国以下を斬り殺し、数千の首級をあげた。
公孫淵の首を洛陽に送りとどけ、遼東郡・帯方郡・楽浪郡・玄菟郡はことごとく平定された。」
この場合も、「帯方郡・楽浪郡」はすでに6月に平定されていたと読むべきでしょうか。
投稿: 村上通典 | 2016年7月 7日 (木) 02時04分

村上通典様
 提示された部分引用を日本語文として解釈するとして、書かれているのは、襄平城の落城によって最終的に四郡がことごとく平定されたと言っているものの、帯方郡・楽浪郡がいつ平定されたか示されていないので、「「帯方郡・楽浪郡」はすでに6月に平定されていた」とする仮説と相容れないものではないと考えます。
 ただし、言うまでもないですが、ここには、帯方郡・楽浪郡が事前に平定されたとは書かれていないのは言うまでもありません。
 再三言いますが、仮説は結論ではないので、そのように取り扱うべきです。
投稿: ToYourDay | 2016年7月11日 (月) 09時45分

ToYourDay 様
前回は、「正史の記事を信頼する限り、景初年間は、景初二年の後の12月で終了していて、景初三年は、存在しないことになる。」とあったので、〔斉王紀〕の景初3年の記事を拾い出してみたわけです。
日本書紀の年代には色々仕掛けがしてあります。例えば、紀元前n年を- n、延長によって紀元前となった日本書紀の年代をY、実年代をXと置けば、年代延長式
Y=3X-831が成立すると仮定してみます。
すると、倭奴国王が後漢に朝貢し印綬を授かった建武中元2年X=57は、
Y=3x57-831=-660 すなわち、神武天皇が即位した紀元前660年になります。
次に、倭国王帥升らが、後漢の安帝に生口160人を献じた永初元年X=107は、
Y=3x107-831=-510 すなわち、第4代懿徳天皇即位の年、紀元前510年になります。
今度は、年代延長式をXについて解いた、X=(Y+831)/3 を年代復元式としてみます。
すると、箸墓伝説が載る崇神10年Y=-88は、X=(-88+831)/3=247.7より
西暦247年、すなわち、卑弥呼が死んで径100余歩の塚をつくった正始8年になります。
また、 第10代崇神天皇をほめてハツクニシラス天皇と称するとある崇神12年
Y=-86を代入すると、X=(-86+831)/3=248.3 より西暦248年、
すなわち、卑弥呼の宗女台与13歳が、倭の女王に立てられた正始9年になります。
ところで、景初3年が西暦239年に相当することを導き出すためにはどうすればよいかをお考えになったことはおありでしょうか。
もしそのことをお考えになったことがおありならば、神功39年を景初3年(西暦239年に相当)と捉えている書紀の編者が、景初3年正月1日に明帝が逝去したことを知らなかったなどとお考えになることありえないはずです。
投稿: 村上通典 | 2016年7月18日 (月) 22時39分

村上通典様
 まず、当方のブログ記事が、論議の口切だけで、中身のない序章で終わっていることをお詫びします。ただし、当記事のコメント対話の一部ではないので、ご了解いただきたい。
 さて、貴コメントに触発されて、景初暦について、いろいろ資料をあさっているのですが、資料収集に時間と費用がかかり、また、正史の暦制関連記事に不可解なものが多くて、つじつまの合う説明がつかないままに日数が経過しているものです。
 さて、当コメント対話の流れでいうと、今回の貴コメントは、いろいろ高度な算術で、書記編者の脳内の成り行き(推定だけで、遺物も文献もなく、実証しようのないもの)を考察されていることがわかりますが、当方の考えでは、これらはすべて貴兄の個人的な思考実験であって、提示いただいた諸仮説の成否は判定不可能と思います。(賛成しないが、下記理由により、否定、批判もしない)
 従って、当方の歴史解釈論議に利用するのは、謹んで遠慮させていただきたいものです。(他人の「所説」は、まずは尊重し、その趣旨を理解した上で、「丁寧に」批判しなさい、という古田氏の遺訓に同意していますので、貴兄の所論の核心部には立ち入らないように努力していますが、手元、足元が狂ったら、ご勘弁いただきたい)
 当方の意見は、平凡そのもので、書記「明帝景初三年」記事に対する合理的、論理的な解釈としては、人名誤写以外の何物でも無い、単なるミスと考えます。案ずるに、当記事を担当した書記編者の手元に届いた魏志引用(簡牘?)がそのように書いていたとすると、編者にはそれを校正するすべがないので、とがめられないものと思います。つまり、書記編者(全体)の手元に、人名を校正するための根拠となる、倭人伝(少なくとも)全体の写本は無かったのだろうと言うことです。
 これに対して、明帝は、明帝紀では景初三年正月、そして、少帝紀の改元、改暦記事に従うと、景初二年の後の12月に亡くなったと年月が変更されているので、これら正史記事を、書紀編者が史家の史眼で読んで、しかるべく考察していれば、景初三年は年頭から新帝の治世になっていたと読み取れるのであり、先帝明帝が冠された「明帝」+「景初三年」と言う書き方は、名分が通ら無いものであり、国史編纂者として不用意と言うしかないものと考えます。
 国史編纂していてそんなことも知らんかったのか、と非難されても仕方ない不始末と考えます。たったそれだけのことです。
 おそらく、ここでも、書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、引用利用した断片的な抜き書きを書き取っていただけと考えます。
 と言うことで、話の振り出しに戻ると、貴兄が、貴サイトで書紀編者の不出来な書きぶりに対する古田氏の批判に触発された反論で、方向違い(と見える)の論議を展開しその自己流の論議を根拠に、古田氏を個人攻撃しているのが、当方の不信を買ったところに始まっているのです。
 正し、貴サイト関連記事で自己流の計算式による書記年代考を滔々と説いているのは、もともと貴サイトの基本方針と思われるので、当方がそちらに乗り込んでいって批判的に議論することは、はなから避けています。貴サイトは、貴兄の知的財産、ないしは、知的な縄張りであり、その全体像が理解できないままに、踏み込んで批判するものではないと考えたものです。そういうことで、他サイト記事の批判も、当方の縄張り内で、当方の方針に沿って批判しています。
 従って、逆に、当方の議論に関わりない思考を前提に「お考えになった」、「ありえない」、つまり、そんなこともわからんのかと、丁寧に「自己流」思考方式を当ブログに押しつけるのは、ご勘弁いただきたいのです。
 景初暦にまつわる疑問については、引き続き追いかけていきます。
 最後になりますが、貴兄が良く言われる筑摩書房版三国志(中華書局版準拠)日本語訳の論拠引用を、単純に真似させていただくと、同書の倭人伝記事日本語訳には、「景初二年六月」と明記されているのですが、これは、書記記事の誤り、つまり、書記編者が依拠した引用資料の誤記を証するものではないのですか。
以上
投稿: ToYourDay | 2016年7月21日 (木) 12時45分

ToYourDay 様
「万代に語り継ぐべき倭王の名」 http://www.geocities.jp/yasuko8787/150310.htm
の「景初3年=西暦239年を割り出すための資料」に引用しているように、年号に関する資料が揃ってなければ、景初3年=西暦239年は割り出せません。
これとは別に、小生は、岩波の「日本書紀」に基づいて、年表を作成し、年100歳の神功皇后の紀の年代は、200を加えると西暦に一致することを割り出しました。
この法則によれば、神功39年は西暦239年に相当することになります。
ここで問題になるのは、神功紀が「39年。是年、太歳己未。(以下小文字)魏志に云はく、明帝の景初の3年の6月、……」と、魏志倭人伝の「景初2年の6月」を書き換えていることです。
日本書紀が各天皇の元年を「太歳干支」で表していることから、この書き換えの意図は、天皇家の元祖である親魏倭王卑弥呼の元年を正確に伝えることにあります。
それはさておき、神功39年の条に景初3年の記事を引用していることは、景初3年が西暦239年に相当する年であることを、書紀の編者が正確に把握していたことを意味します。
それゆえ、「(神功)40年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の元年に、……。「(神功)43年。(以下小文字)魏志に云はく、正始の4年に、……。」とあることからも、「書記編者の手元に魏志当該部分の写本はなく、……」というとらえ方は、粗雑といわざるを得ません。
なお、参考までに書き添えれば、岩波の日本書紀には、欽明32年4月15日の「天皇、寝疾不予したまふ」に関して、「魏志、明帝紀、景初2年12月条に「帝寝疾不予」とある。不予は天子の病気をいう。」とあり、
「駅馬……」に関ししては、「以下は景初三年正月条の文「太尉宣王還至河内。帝駅馬召到、……」による。」とあります。明帝紀を見ずに、こんな作文が出来るでしょうか。
最後になりますが、「景初三年は、存在しないことになる。」とのご発言が、誤解に基づくものであることは、認めて頂けたのでしょうか。
投稿: 村上通典 | 2016年7月27日 (水) 11時26分


村上通典様
 当方コメントで、当方のブログ記事の枝葉にまつわりついて、「独創的な」自説を押しつける手際について、前便で苦言を呈しているので、再読ください。貴サイトで貴サイト記事の批判をしたのなら、貴サイトの(ローカルな)論理を踏まえて議論するのが「仁義」と言うものでしょうが、ここは小生の小ブログなので、布教活動はご遠慮戴きたいのです。
 事のついでとばかり、当方の議論を『粗雑』だと批判されていますが、推測の表明を粗雑と言われたら、およそ、「古代史業界」に飛び交う議論の90%以上は粗雑と評価されるでしょう。不確かな史料の自己流解釈を禁じられたら、何も言えません。
 こうしたお互い様の粗雑さについて、特にご意見を承る義理はありません。
 そもそも、原点に戻ると公的史書の編纂にあたるものが、引用原典の正確な引用ができず、王朝の大義名分に関わる記事時点の当代皇帝の生死について、間違えていることは、単なる、誤記であって合理的な弁明の余地はないと思います。
 当方が、正史の写本云々と、編者の素人くさい逃げ道(言い訳)を用意したのに対して、当人の事情を知らない第三者がとやかく言うのは不適切です。
 貴兄が繰り返している反証というか、批判の根拠として推測し、提示されているのは、編者が、別の部分の抜き書きを手元に持っていたとしても成立する意見であり、その部分の編者が同一人物と証するには不十分であり、同一時代の書き込みと言うことすら保証されず、書紀原本編纂の際、編者は「正史写本(全巻)を参照していた」との証拠になどならないのは言うまでもないと思うのですが。繰り返しになりますが、古代史学は、『一説』の提示が大半であって、それを以て定説を排除する力を持たないのが大抵です。
 まあ、道草、枝葉の議論は『かも知れない』で締めるとしても、上記した元々の論点は、健在です。
 そもそものそもそもは、古田氏の指摘は、そのように一理ある論説と見えるのですが、貴サイトでは、貴兄の個人的な嗜好に大いに反しているとの趣旨なのでしょうが、「独創的」な自説を絶対視して、第三者に累を及ぼす暴言まで賑々しく公開しているのを、「それは御損ですよ」、とたしなめる主旨だったのです。以上は、個人的な嗜好ですから、表だって押しつけるものではないので、気づいて戴けるように色々といていたものです。
 他人が何を言おうと、天に恥じない正義の論難だというのなら、これもまた、個人個人の好き好きと言えるかも知れませんが、私見は、その程度の不確かな論拠で「嘘つき」と言い募るのは、健全な批判ではないよ、と窘めているのです。論議に説得力があれば、淡々と書き綴られていても、天下に認められるものです。
 ここまでの議論は、脇道に逸れていくばかりなので、当ブログのコメント対話は、お開きにしたいものです。批判は批判として受け止めますが、話の成り行きで、時には、人まねで受けを狙って転んでみせることもあるのです。
 引き際は、貴兄にて判断してください。
投稿: ToYourDay | 2016年7月27日 (水) 14時37分

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[45] 二科展初入選

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年10月 7日(金)17時00分4秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

Yahoo!で「二科展初入選」を検索すると、何十枚もある押切もえさんの画像の中に一枚だけ、「[41] 思いがけない記事 」に載っている画像が紛れ込んでいました。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[44] 表面加工

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年 9月27日(火)18時45分50秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

知人が表面加工した新聞のコピーを届けてくれました。その加工は、ラミネート加工か、または、パウチ加工と呼ばれるようです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227281957?__ysp=44OR44Km44OB5Yqg5bel 

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[43] 知人から届いたコピー

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年 9月27日(火)18時01分26秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

知人が新聞のコピーをパウチ加工して届けてくれました。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[42] 思いがけない記事

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年 9月25日(日)16時31分11秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

お母さん、入選しとったよ―。

東京の国立新美術館で8月31日~9月12日に開かれた「第101回二科展」に愛媛県今治市小泉2丁目、村上泰子さん(80)のデザイン作品が初入選した。7月末に亡くなった母を在宅介護しながら手にした「三度目の正直」で「うれしいよりも、ほっとした気持ち」と胸をなで下ろしている。

 書道や文学好きな村上さんが創作を始めたのは約5年前。素材を貼り合わせて造形するコラージュに興味を抱き、不慣れなインターネットを使って美術通信講座に出合った。

 約2年の講座終了後も講師とやりとりし、介護の合間を縫って創作を継続。紙製のボード(縦23センチ、横16センチ)6枚にアクリル絵の具などで色を重ねたり消したりする作業を春ごろから約3カ月間繰り返し、色が繊細な風のように吹き交う情景を表現した組み作品「色のさざめき」を完成させた。

 母の宇佐美トキエさんは約12年間の介護の末、入選通知が届く約1週間前に老衰のため103歳で亡くなった。村上さんは制作追い込み時期の介護は大変だったというものの「絵と向き合うことで気持ちが切り替えられた。残りの人生何ができるのか自問自答する中で結果が出せた」と達成感を語る。
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愛媛新聞社

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mokuzi.htm



[41] 思いがけない記事

投稿者: 暗号山上憶良 投稿日:2016年 9月25日(日)16時24分27秒 softbank126057147006.bbtec.net  通報   返信・引用

Yahoo!ニュースに思いがけない記事が載っていたので、記念にコピーしておきます。

介護・美術、二役お見事 村上さん二科展初入選(愛媛新聞ONLINE) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160925-25994501-ehime-l38 … #Yahooニュース




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